箱根の見どころ

元箱根石仏群

旅ゆく人々を救う仏「地蔵菩薩」

元箱根石仏群は上二子山と駒ヶ岳の鞍部にある精進池(しょうじんがいけ)のほとりに位置し、地質的にも上二子山の溶岩と駒ヶ岳の溶岩の境界部にあたります。また、元箱根から続く箱根町断層の延長上に相当すると考えられています。ここには上二子山の溶岩で構成される崖をそのまま彫りぬいた磨崖仏と、溶岩を切り出して造った宝篋印塔があります。
池周辺には、中世の箱根越えとして利用された湯坂道が通っていますが、各所に噴煙が立ち上る荒涼たる風景であったことから、人々に地獄として恐れられました。それゆえ、今から約700 年前、鎌倉時代終わりから室町時代前期にかけて、旅ゆく人々を救う仏として信仰された地蔵菩薩を祀る多くの石仏や石塔が造られたのです。

これら石仏石塔の多くは、中世の地蔵信仰を物語る遺物として国の重要文化財に指定され、また、周辺一帯も同様に国の史跡に指定されています。このような貴重な遺跡について、資料を収集し後世まで残していくために、箱根町教育委員会は、昭和63 年から約10 年間の期間を費やし、この史跡の保存整備を行いました。

石仏群の成り立ち

精進池周辺の石仏や石塔は、鎌倉時代後期の一時期に集中して造られたことが大きな特色です。そしてそのほとんどに地蔵菩薩が刻まれるなど造立の背景には地蔵信仰との深い関わりがうかがえます。
なぜ、この辺り一帯がこのような地蔵信仰の霊地となったのかというと、当時ここは箱根越えの道として使われた「湯坂道」の最高地点に近く、歌人・飛鳥井雅有がこの地を通過する時に「この地に地獄がある」と記したように、険しい地形や荒涼とした風景などから「地獄」とみなされ、恐れられていたようです。
そのため、「地獄に落ちた人々を救ってくれるのは地蔵菩薩」という地蔵信仰が全国へ広がる中で、「地獄」と恐れられたこの地もまた、旅人をなぐさめるため、地蔵信仰の霊地となっていったと考えられます。
それぞれの石仏や石塔をご覧いただくと、ところどころに、これらの造立にたずさわった人々や、由来などが刻まれています。
こうした中で注目されるのは、「多田満仲の墓」と呼ばれる宝篋印塔の銘文で、造立の発願者のほかに、石工の代表として大和国の「大蔵安氏」、導師として大和国西大寺の僧侶叡尊の弟子で、鎌倉極楽寺の住職であった「良観(=忍性)」の名が見られることです。
忍性は僧侶として活躍する傍ら、慈善事業として数々の土木や建築事業を行っており、こうした職人集団と深くつながっていたことがうかがえます。
このような大規模な石仏や石塔の造立にも、多くの石工たちが動員されたと考えられることから、これらの造立に、忍性が深く関わっていたとも考えられます。

江戸時代の石仏群

江戸時代になると、湯坂道に代わり須雲川沿いのルートが東海道として整備され、往来には東海道筋がもっぱら利用されるようになりました。
一方で、江戸時代半ばを過ぎると、街道をはずれて箱根七湯の各温泉場を訪れる湯治客が増えていきます。その中で、石仏群は芦之湯温泉に近いこともあり、湯治滞在中にここを訪れる人々も増加していきました。
これに伴い、石仏や石塔は、当時江戸を中心に浄瑠璃や歌舞伎で人気の「曽我兄弟」の物語や、数々の伝説と結び付けられ、観光名所としても知られるようになりました。当時の代表的な温泉案内書『七湯の枝折』(1811年)には、箱根山名所の一つとして紹介されています。

経年による劣化の状況

硬い安山岩でできた各石仏・石塔ですが、長い年月風雨にさらされることにより、表面が風化磨耗したり、苔に覆われたりしてしまいます。また、植物の根により岩盤の亀裂が広がってしまう箇所もみられるようになります。さらには、地震や土石流により石塔の倒壊や磨崖仏の埋没も繰り返され、周辺の地形も変貌しました。
明治37年(1904)、新道が建設される際には、石仏群を縦断していた「湯坂道」が破壊され、さらに大正9年(1920)、この道が国道一号線に改修される際に、周辺地形にも手が加えられてしまいました。

整備で目指したこと

石仏・石塔がこの地に集中する意味や、その信仰目的、この地の持つ風土を認識し、当時ここを行きかう人の意志や精神状況を表現し伝えることは歴史的に重要で意義のあるものです。
そこで、造立時の地形や、各石仏・石塔の構造、石仏・石塔に刻まれた内容について、考証を行ないました。
岩体には表面に化学的な処理を施したほか、安定化を図るため、亀裂に樹脂を充填し、崩落の危険性が大きい箇所にはアースアンカーを打ち込み補強を施しています。
しかし、このような作業も劣化の速度を遅らせただけの処理で、日常的な維持管理がとても重要となります。
したがって、この地が地蔵信仰の聖地だったことを感じ取っていただけるよう史跡公園としてよみがえらせ、次の世代に受け継いでいけるようにしました。

曽我兄弟物語

源頼朝が鎌倉に幕府を開いた翌年の建久四年(1193)五月のこと、富士の据野では豪快な巻狩りが行われていました。
頼朝以下、相模や伊豆の有力御家人が参加していた陣屋群の一画で、夜半、時ならぬ大騒動がもちあがりました。曽我十郎、五郎が父の仇・工藤祐経に急襲をかけたのです。
事件の発端は、十八年前にさがのぼった所領争いからでした。伊豆伊東はもともと仇と狙われた工藤祐経の父・祐継の所領でした。祐継亡き後は当然、祐経が領主となるべきところ、何分にも九歳と幼かったので、従兄弟に当たる十郎、五郎の祖父伊東祐親が代っておさめることになりました。
しかし祐経が成人となっても祐親は領地を返してくれません。それを恨んで祐親・祐泰親子の狩りの帰りを郎党に襲わせたのですが、祐親を祖った矢は十郎、五郎の父・河津祐泰に当ってしまいます。襲わせた祐経にとっても、不運な一矢としかいいようがありません。その上、頼朝が源氏の旗を掲げた石橋山の合戦では、伊豆一を誇ったさしもの伊東氏も、没落の一途をたどることになりました。
十郎が五歳、五郎が三歳の折、母の満江御前は二人を連れて相模国曽我祐信に嫁し、兄弟は養父の曽我姓を名のることになります。
しかし、頼朝に反旗をひるがえした祐親の孫では命も危いため、十郎は曽我の家を継がせ、五郎は箱根権現の稚児として十三歳で出家させます。
翌年、頼朝は祖父以来深く帰依し、また、石橋山の合戦では辛くも命を救われた箱根権現に参拝しています。そこで五郎は工藤祐経をまのあたりにし、憎しみの炎が吹き出すのを覚えます。ましてや、その祐経からなだめるように赤木柄短刀を与えられては、ふんまんやるかたない怒りがこみあげてきます。
仇討ちの決意を固くした五郎は、十七歳で元服し、その機の訪れるのを待ちます。そして六年後、巻狩りという絶好のチャンスを迎えたわけです。
十郎も大磯の白拍子・虎との恋に訣別し、二人は曽我の里を後にします。箱根の山越えの途中、箱根権現に仇討ちの成就を祈願し、師事した行実に別れの挨拶をした兄弟に、行実は名刀二振りを授け、本懐をとげるよう励まします。
そして五月二八日、巻狩りの疲れでぐっすり寝こんだ工藤祐経陣屋に闇にまぎれておどりこみ、かつて祐経から与えられた赤木柄短刀でみごと積年の恨みをはらすわけですが、十郎は討死、五郎は捕えられて死罪と、若い命を散らしました。十郎二十二歳、五郎二十歳の初夏でした。
この事件は被害の大きさから反頼朝勢も加わったクーデターとの見方もされていますが、ともあれ、哀れを誘う兄弟の物語は、多くのいい伝えを残しています。

石仏群マップ

詳細

アクセス 小田原駅・箱根湯本駅から箱根登山バス・伊豆箱根バス箱根町行きで「曽我兄弟の墓」または「六道地蔵」下車

マップ

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