雨あがりの匂いが立ちのぼる広い園庭は、はち切れんばかりの期待感にあふれていた。この日を待ちわびていたのか、種が弾けるようにひとりが駆け出すと他の子が続いてゆく。そうして、水たまりの残る園庭はたちまち泥んこに! ところが、先生方や集まった保護者には咎める様子がない。そこには包みこむようなおおらかさと、彼らとのたしかな信頼感が漂っていた。そうして一段落すると、箱根幼稚園の金井潤子先生が声をかけた。
「みんな、今朝まで雨が降っていましたね。いつもお散歩にいく駒形神社には、天之御中主さまが祀ってあり、その神さまは歓迎の雨を降らせるそうです。歓迎の雨の後、こうして晴れたのは、みんながいい子だから、今日は楽しんでねと神さまが応援してくれているからだと思います。では、がんばっておいしいごはんを作りましょう。えいえいおー!」
続いて、拍手とともに迎えられたのは、アウトドアコーディネーターの小雀陣二さん。チュンチュンの愛称で親しまれている小雀さんは、カヤックや自転車、サーフィンなどに親しみ、焚き火料理のスペシャリストとして知られている。
「みなさん、火は怖いかな? そうだね、だけど上手に扱うことで、体を温めて、おいしいごはんを作ることができるんです」
そうしてポケットから紙切れを出すと、ライターで火を着け、焚き火台の上へ。すかさず乾燥したスギの葉をふわりと乗せ、メラメラ炎が上がったところで小枝、そして太い薪をくべる。生き物のように揺らめく炎は、じきに太い薪を飲みこんでゆく……。こうして、魔法のような手際のよさで焚き火を起こした。その手業に、子どもたちは真剣な眼差しを注いでいる。
去る9月8日、神奈川県箱根町の箱根幼稚園にて、箱根町内にある4つの幼稚園、保育園などの5歳児が集まって焚き火を体験するイベント「HAKONE TOWN×GOLDWIN HAKONE Outdoor Experience Class vol.1」が開催された。ザ・ノース・フェイスなどのアウトドアブランドを展開するゴールドウインと箱根町は、この3月に「地域活性化に関する包括連携協定」を締結。箱根町が誇る自然と文化の魅力をアウトドア的な側面から発信し、また、子どもたちに 体験してもらうことで次世代へつなげようと、意欲的な取り組みを行なっている。
「元々、箱根の幼稚園や保育園 では、秋に芋掘りを行ない、それを園庭で焼き芋にするという流れがあるんです。ところが職員の数が限られているのと、わたしたち自身が焚き火に慣れていないため、子どもたちは見ているだけで、積極的に体験させてあげることができませんでした。そこで、4園の先生や箱根町と話し合い、そこにゴールドウインさんの協力もあって、今回の開催にいたることができました」
焚き火の準備をしながら、宮城野保育園の小山千恵美先生はこたえる。そうして、安全管理について何度も話し合い、消防署とも連携を取る。その一方で、箱根町にあるスギの間伐材を集め、薪割りをして、この日に備えていた。
雨あがりの園庭に広がる、焚き火と泥の匂い。園庭で焚き火ができる、素晴らしい環境
「いいですか、太い薪にいきなり火を着けることはできません。紙、スギの葉、小枝……という順番で火を着けていってください」
なにかコツはあるんですか、そんな素朴な疑問にチュンチュン先生はにっこり笑い、もう一度、ていねいに火を着けてゆく。そしてまた、鮮やかな手つきに一同が引き込まれる。
「みんなと同じ、焚き火も息をするんです。酸素って分かるかな? 密集させるように薪を並べると、焚き火は呼吸ができなくて消えてしまいます。なので、酸素が行き渡るように、焚き火の様子を見ながら、ゆっくり薪を入れていってください」
5つの班に分けられた子どもたちは、保護者とともに、それぞれ火を起こしはじめた。先生が紙に火を着けると焚き火台に置き、子どもたちは慎重にスギの葉を乗せていく。2度の実演もあってか、どの班も順調にと思いきや……。
「先生、そんなに大きい薪をいっぱい乗せちゃダメ。チュンチュンは4本だったよ!」
心の奥をくすぐるような懐かしい焚き火の匂いが園庭に広がってゆく。着けたばかりの火は、小枝を燃えあがるように炎を立ち上げる。その勢いを借りながら、より太い薪に火を移してゆく。
「燃えさかる炎は扱いづらく、調理には向きません。その段階を越えると、薪は炭化してほどよい熾火になります。一度、熾火にしておけば、肉をおいしく炙ることもできるし、必要ならば薪を足すことで再度、強火にすることもできる。焚き火は起こすことではなく、使いやすい大きさに火をコントロールし続けるところがポイントです」
そうして、この日のメニュー、ワンポットパスタの準備に取りかかった。ワンポットパスタとは、アメリカで人気のキャンプメニュー。200mlほどの水にオリーブオイル少々、パスタとツナをあらかじめ入れたポット(鍋)を焚き火上に置き、じわじわと加熱してゆくシンプルな料理だ。小雀さんは、ひとりにひとつ用意された鍋と指を通すガイドのついたナイフ、手指を守るプロテクターを配った。
「それじゃあ、インゲンをみんなで切ってください」
そうしてインゲンとプチトマトを加えたら、いよいよ焚き火にかける。見ていると、子どもたちは風向きを見ながら、火の粉が飛ばぬよう、煙くならないよう、自身で考えながら、風上側から慎重に鍋を並べていった。
期待をこめて鍋を眺めると、金色のスープがぷくぷくと泡立ってゆく。その様子に子どもたちは歓声をあげた。
「火が笑っているね!」
焚き火には強弱があるので、均等に熱が入るよう、少しずつ鍋を入れ替える。そのたびに、子どもたちは刻印するように、動かされた自分の鍋をじっと見つめている。
やがて、煙のまわりあわい においしそうな香りが漂いはじめる。ひと口ちゅるっと食べてみて、パスタがほどよい硬さに茹だっていたら、塩をひと振りしてできあがり。熱い熱いと言いながら、子どもたちは勢いよく食べはじめる。そんな姿を見ながら、お母さんのひとりが感慨深そうに声をあげた。
「この子がトマトを食べるのを、初めて見ました」
食後のココアを淹れながら、小雀さんもほっとひと息。
「パスタはソースは と分けて調理したほうがもちろんおいしいけれど、アメリカ的な合理性というのかな、鍋ひとつで完結するおもしろさがある。子どもにも親しみやすいし、茹で汁を捨てずに調理するので、登山にもぴったり。ソースを煮詰めてもいいし、スープパスタ的に食べてもおいしい。ナスやバジルを入れてもいいですよ」
午後は、マシュマロを焼いてビスケットで挟んだお菓子、スモアを作った。焚き火で炙るのは、シンプルな分だけ、難しいところがある。少し目を離すと焦げついたり、とろりと溶けて落っことしたり……。塊肉や釣り上げた岩魚をを 炙るのも、簡単なようでじつは奥深くおもしろい。そんな魅力に気づいたのだろうか、3つのマシュマロを刺し、焼き加減を見ながらくるくると回す男の子の姿に、小雀さんは目を細めた。
「手つきがいいなあ。立派な焼き鳥屋さんみたいだね!」
そうして、5つの焚き火を見守り、さりげなく手を入れながら、焚き火を育てている。かつて、小雀さんはカヤックガイドを務めていた。ときに雨の降るなか、一日中漕ぎ続けて安全な浜に上陸すると、流木を集めてすばやく焚き火を起こし、お茶を入れつつ、食事を作りにとりかかる。そのときみなが浮かべるほっとした笑顔が、今の仕事の原動力となっているという。
「焚き火は、キャンプの贅沢なプラスアルファととらえられがちですが、暖を取ることと調理をすること、ふたつの仕事を同時にこなせる実用的な技術です。だからこそ、子どもたちにも伝えていきたいと思っています」
子どもたちに焚き火を……そんなふうにわたしたちが願うのは、快適な生活に潜む、危機感を察知しているからかもしれない。
「自動で流れるトイレに馴染んでいる子は、レバーを使うことを知らなかったりします。いろいろなことが便利になっているからこそ、昔の人が当たり前にできたこと、昔ながらの手法は、意図的にやらないと体験できないのかもしれません」
そう話してくれたのは、湯本幼児学園の里中泉先生。先生方に通底し するそんな思いが、今回のイベントを開催するきっかけになったのだろう。それにしても、園庭で焚き火ができるなんて……! そうした、箱根ならではの環境を生かしたいと、金井潤子先生は言う。「危険なものをできるだけ排除する」という世の中の風潮は、子どもたちにダイレクトな影響を及ぼす。そんななか、子どもたちに生きる力を身につけてもらうには、そして、箱根町でできることは何か。
「やっぱり、身近な自然に触れてもらうことだと考えています」
金井先生はそう続ける。一方的になにかを教えるのではなく、体験を通して五感を震わせることで、自らを大きく育ててほしい。
「今日もいろいろなことを感じたと思います。焚き火の香りであり、目にしみる煙であったり、炎の暖かさ、そうしておいしさ。お父さん、お母さん、他の園の子どももいるなかで、たくさんの言葉を交わしたことでしょう。そんななかで生まれた物語が、彼らが成長していくうえでの心の糧になってくれたらと思っています」
文=麻生弘毅
写真=久高将也
翻訳=朝香バースリー
ディレクション=金子森
取材協力=箱根町、ゴールドウイン