寄木細工にかける情熱
金指氏が小学校低学年の頃、畑宿には50軒の集落があり、そしてその頃の畑宿は寄木細工に関わる住人で溢れていた。
寄木細工をやっているところは14、15軒、やっていない家もそこに働きに行っていたので、ほぼ全ての家が寄木細工に関わっていたことになると氏は言う。
時代は流れ、手間暇がかかる寄木細工は商売として成り立ちにくくなり、多くが他の木工製品に流れていき寄木細工の継承者がいなくなりかける事態に陥った。
危機感を募らせた神奈川県や箱根町が主体となり、5~6人の親方たちが集められ勉強会を開催することに。
元々祖父が寄木細工をしていた金指氏だが、ご多分に漏れず祖父の代でその灯火は途絶えかけ、父の代になるとテレビやステレオの駆体を木工で作る木工職人へと変身を遂げていた。
寄木細工の可能性を感じていた金指氏はこの勉強会に参加して、「箱根寄木細工を廃らせてしまってはダメだ」と思いを新たにした。
周りからの反対を覆す
寄木でも飯は食えるんだ!
「どうせやるならば誰もやってなかった無垢(ムク)の寄木をやろう」と思い立ち、その習得に勤しんだ。
(小田原には当時無垢の寄木はあったが、商品としてのそれではなかった)
そして無垢の寄木ブロックそのものをろくろで削り出し、立体作品を制作する「無垢作り」という独自の技法を産み出すに至る。
無垢作りは種板そのものをろくろでくり抜いて加工するため、盆、椀、丸膳などがあり、曲線を表現できる無垢作りにどんどんのめり込んでいくことに。
ただ、父親、親戚一同全員が口々に異を唱える。
「寄木じゃ飯は食えない」
「だったら三ヶ月だけ自由にさせてほしい」「それで売れなかったら諦める」と直談判し、しぶしぶながら納得してもらった。
その時の箱根町は金指氏のこの決意を支持してくれたという。
「もし売れなかったら町が買い取るから」とまで言ってもらい背中を押してもらった。作品を持って様々な土産物屋を回るがこれが想像を超える反応の良さ。
結果、町に買い取ってもらうまでもなく、作品は飛ぶように売れた。
「当時は365日のうち360日以上くらい働いていた」と言う金指氏は、父親、親方衆の反対をものともせず「寄木じゃ飯は食えない」を覆すことに成功した。
名誉ある箱根駅伝の優勝カップ
そのテーマとモチーフは一年がかり
この技術を応用して箱根駅伝の優勝カップ(往路)を作成できないか?と相談を持ちかけられたのが平成8年のこと。
「できますよ」「是非やらせてください」と即答した氏。
できますと言ったものの毎年違うカップにするためにテーマが必要になる。
毎年1月2日、3日と行われる今や国民的イベントに相応しいテーマ。
一年を通じてその時々の話題、明るい話題をテーマにしよう!と決めてからは早かった。
平成8年から毎年欠かさず作り続けているが、例えば富士山が世界遺産になった時には富士山をモチーフに逆さ富士に、東京スカイツリーができた年はスカイツリー型のカップになった。
毎年、製作に入るギリギリまでテーマを探し、そのテーマに相応しいモチーフを探す。 逆算すると10月から製作に入らないといけないため、そこまでにはテーマを決めることになる。 デザイン画や図面があるわけでない。 頭の中にある図柄を種板と向き合い、頭の中のモチーフを削りながら産み出していく独自のスタイル。 今年もまたギリギリまでテーマと、それに見合うモチーフを探し続けるに違いない。
「私が子どもの頃は軒先に板が干されていて、集落全体が寄木の里としての一体感がありました」
「畑宿を訪れる人たちに、畑宿って寄木細工発祥の地なんだと感じてもらうような、そんな寄木の里の復活を夢見ているんです」
80歳を超えてもまだ夢を語る金指氏。
ただ夢描いてるだけではなく、出来ることから始められている。寄木材の見本林を作られたのもその一つ。
国立公園になったことにより、箱根山系の木材は使用することができない。だからこそ実際の木材を目にしてほしいとの思いからだ。
看板にも確かに「箱根寄木細工の里」の文字が光り、至るところにその文字は自然と目に入ってくる。
職人には引退の文字はないとは聞いていたが、箱根の畑宿にはまさに引退とは無縁の兵(つわもの)たちが瞳を輝かせている。